脱出

八月一四日 七時三七分 粕川家・一階・リビング

彼は、顔をゆっくりと、舐めるように滑り落ちていく味噌汁の具材を感じていた。今しがたまで、彼自身が朝食として温めていたものである。その温度たるや、灼熱の地獄のようであった。何も、彼が好き好んでその汁を被ったのではない。世の中広しといえども、そのような10歳児はそうそう居るものではない。しかし、彼にとっては、自分から被ったにせよ、「事故で」被ったにせよ、そんなことはどうでもよく、ただ、この後の手当てのことだけを考えていた。
彼に対して「故意に」味噌汁をかけた少女は、彼の反応をじっと、その内心の動きまでを推し量ろうとするかのごとく、じっと見ていたが、何も反応せず(実はこのとき、彼は反射運動さえもしなかったのである)どろっとした、死んだ魚のようなめ目で部屋の空白を見つめる彼を見て、飽きてしまったのか、それとも、いよいよ気味が悪くなったのか、ふいと彼から視線を逸らし部屋から出て行った。
彼はこの家の子ではなかった。幼いころに両親を亡くした彼は、いくつもの縁者の下を渡り歩いた末、遠縁の親戚たるこの粕川家に養子として連行された。本当の名は真山 清彦という。しかし、今の「粕川 清彦」のほうが、奴隷の背番号としてはるかに彼、いや清彦には馴染みがあった。この家に漂着してから、(どうしてこうなってしまったのかは清彦には皆目見当も付かないのだが)清彦は粕川家の一人娘、成美にたいそう嫌われてしまい、いわゆる奴隷のような毎日を過ごしていた。父親の貞夫(粕川家は片親で母親はいない)はとても清彦に良くしてくれ、(どうやらそれがまた娘の鳴海には気に喰わないようである)清彦が気に病むくらい親切であるのだが、娘の成美が清彦を虐げているということは、どうやら気づいていないらしい。また、粕川家のあるこの奥居村は外との交流は余り無い村で、清彦は余所者扱いされ、彼を好意的に思う人間は二人を除き全くいなかったのである。
こんな凄惨なリビングルームなど、ほかには無いのではないか。清彦は床に這うようにして、床を拭いていた。もう、こんなことは彼にとってはルーチンワークの一項目に過ぎない。慣れたものである。


同日 十一時三四分 珀蛇神社・奥殿

 清彦は、境内の縁側でとある少女と戯れていた。その少女は清彦と同じくらいの年齢で白髪に緋色の和服という一風変ったいでたちであった。特に妙なのはその瞳の色で、これがまた真っ白なのである。清彦は彼女を「白」と呼んでいた。(といってもこれはあだ名であると清彦は思っていたが、彼女が本名を明かさないので、清彦がついにそれを知ることはなかった)白はこの村では「厄介者」らしく、村で「余所者」の清彦とは馬が合い、いつも一緒に遊んでいた。
 白は宙を掴むように手を握ると、勿体つけるように清彦の前へと持ってきた。そして清彦の目を見てフッと微笑むと、ゆっくりとその包みを開いた。中には光輝くガラス球が幾つか納まっていた。かとおもうと、白はそれを宙に放り投げた。球たちは自由落下をするとおもいきや、
「北斗七星」
星座の形に静止した。清彦はこの奇妙な技巧に感動のため息をついた。
 こんな風に、白には奇術の才能があった。清彦がどんなに落ち込んで、暗い気分の日があったとしても、白の奇術を見るととたんに癒されたのである。他にも、瞬間移動、空中浮遊、はたまた、傷を癒すといったことまで……。中でも、清彦のお気に入りは「時間旅行」であった。奇術としては地味なほうの技で、ただ単に時計の針をグルグルといつもより早く回すというものだった。清彦の道楽も過ぎたもので、毎週一回はこれを白にせがんでいた。
 清彦と白は毎日のように遊んでいた。奇術のほかにも、鬼ごっこやかくれんぼ、など。二人を気味悪がる人々も、白の居る神社には近づかなかった。そのため、二人はいくらでも、そう何時までも遊ぶことができた。清彦も、このときばかりは自分の穢れた目が浄化されていくように感じていた。
「じゃあ、最後にあれ見せてあげる」
白はそういって、懐から懐中時計を取り出した。清彦はじっとそれに見入る。烏がどこかで一鳴きし、飛んでいった。ぽうっと時計が光ったと思うと、針が逆回転をし始めた。まわる、廻る、回る。清彦は拍手をした。やっぱり何度見てもいい。
 そろそろ日が暮れてきた。夕食を作るのに遅れてしまうと後々面倒だ。
「じゃ、またな」
清彦は神社の階段を駆け下りた。
白は駆け下りていく清彦を見つめて言った。
「……うん。またね」


同日 二十一時十二分 粕川家・一階・リビング

清彦は成美に詰られていた。
「またあの娘のとこへ行ってたの? よくもまあ夕食も作らずそんなことができるわね。居候のくせになんとも思わないの? 全くいいい根性してるわ」
うな垂れながら全てを聞き流す。いつものこと、いつものこと。そう言い聞かせながら、じっと耐える。
「どうしてこう貴方は他人を不快にさせる名人なの? ……まぁ、あの子は今日で居なくなるみたいだけど」
いつものことではなかった。
「えっ……?」
心の防壁が崩れ始める。
「だからあの娘は今日で村から……
居ても経っても居られなかった。清彦はすぐに駆け出すと、白の待つ(というよりも、清彦はそこ以外で白に会ったことが無いのだが)珀蛇神社へと走っていった。
 夜道は暗い。ひき蛙の声が木霊する。何度も木の根に躓きそうになりながら走る。所々に見える民家の明かりが清彦の心細さに拍車をかける。もう居ないのではないか、いや、彼女はそんなことをするような奴じゃない。でも、両親は急に居なくなったじゃないか。また同じさ。いくつもの不安が浮かんでは消え、浮かんでは……。そうこうして、とうとう神社の石段の前へとたどり着いた。手入れの行き届いていない急な石段が、絶望のように立ちはだかる。清彦は雑草に半ば埋まっているそれを、刻むように上り始めた。


同日 二十三時 二十三分 珀蛇神社・奥殿

「白! 白! どこだよ! 白!」
清彦は境内を叫びながら走り回った。
「騒々しいですね。そろそろ日付が変ろうとしているのですよ? 深夜は身体にあふれる氣が集中し、自然と一体になれるというのに――」
奥殿の中からゆっくりと白が姿を現した。半眼でこちらを睨んでいるさまは夜叉のようであった。
「気なんてどうでもいいだろ!」
苛々しながら、清彦はそう言い返した。
「よくはありません! 生命の根源となるのですよ!」
白は両手を振り回して反論する。
「だからって、いなくなっちゃうことに比べたらなんでもないだろ!」
一気に白の顔色が変った。いつもは堂々として動じない瞳が、とたんに泳ぎだした。
「なっ……。どうしてそのことを――」
一気に清彦は城に詰め寄る。
「本当なのか? どうなんだ? どうなんだよ……」
叫んでいた清彦は最後には懇願するように問うた。白は答えるかどうか暫らく迷っていたが、ゆっくりと声を出した。
「はい――。いなくなってしまうと言うのは少し御幣があります。どなたから伺ったかは存じませんが、正しくは、村人に殺されると言った方が正しいでしょう。」
殺される、普通の人なら子供の冗談、若しくは嘘だと一笑に付すであろう。しかし、清彦は「普通では無い」少年であったのである。だから清彦はこの言葉を本気にし、(なんと殺される理由さえも、清彦にとってはどうでも良かったのである)黙り込んで熟考し始めた。虫と葉が擦れる音しか聞こえぬ境内は次の清彦の言葉をよく響かせた。
「じゃあ――逃げよう」
「えっ……」
白はハッとしたような表情になった。この声は、発したというよりも、漏れてしまったと言うほうが正しいように思えた。
「うん。逃げよう」
もう一度言うと、その言葉はよりしっくりと清彦の心に馴染んでいった。
「どこへ……?」
「此処から西へ行ったところにトンネルがあるだろ、其処から隣町に逃げるんだ」
「君は? 君はいいのか? 」
清彦はその言葉に泣き笑いを浮かべた。
「俺のことはどうでもいい。――どうせ、俺のことなんてだれもきにしないからさ」
じゃあ、行こうと清彦は白の手をとって促した。
「……私のために……こんな……」
白はなにやら呟いていたが、吹っ切れたように、
「わかった。君がそう言うなら――行こう」
こうして二人の脱走計画は始まった。


八月 十五日 一時 五十五分 奥居村道一号

 生田敏郎は立小便をしていた。どうやら、集会所の宴でいささか飲みすぎたらしい。アルコールで火照った体には、夜風はとても涼しく快適に感じられた。といっても、生田は普段は余り飲まない。家族が代々消防団員の家系に生まれた為か、生田は規則正しい男であった。晩酌も大抵、缶ビール一本や焼酎一杯程度で済ませるのだが、今日は明日のこともあってか、酒がいつもより進んだ。
――敏郎、言っておくが、あれだけはしくじっちゃなんねぇ。村が無くなっちまうくれぇの騒ぎになんぞ。よく覚えとけよ、あれだけしくじんじゃねぇぞ。
父の今際の言葉が頭をよぎった。背筋が急に寒くなってきたので、ぶるっと一回身震いした。
「縁起でもねぇ。縁起でもねぇ」
 ふと、道の奥に白い何かが見えた。風に揺られている。先ほどまで考えていた「あのこと」が頭をよぎる。よく見てみると……次第に焦点が定まってきて……まさか……あの髪は……。
「お、お前! そこで何をしてるんだ! 神社からは出られないはずだろ!」
「やばい! 見つかった! 白、走るぞ!」
男の子の声がした。どうやら共犯者がいるらしい。生田は追いかけようとした。が、未だ小便が終わっていなかったので、それをすることはできなかった。
「くそっ、早く終われ、早く終われ……」
それは無理な相談と言うものである。


同日 二時 五十三分 奥居村集会所

 集会所では未だに宴会が続いていた。「明日」のための景気付け集会な為か、皆いつも以上に飲んでいる。集会所の端では酔って潰れた敗者たちが死屍累々と積み重なっていた。そこへ、死神からの使者の襲来。使者は宴の中心に座っていた男に向かって叫んだ。
「村長! 大変です! 『忌み人』が!」
忌み人、その言葉はその場で聞いていたもの(酔いつぶれていた者は聞こえていないので、この時は含めない)酔いを一気に吹き飛ばした。村長は憔悴しきった様子で立ち上がった。
「なっ、古文書ではあの神社から出られないはずだが……共謀したものがいるのだな」
生田は言うかどうか迷った。というのも、言ってしまうとその人物が村八分になる、もっと悪ければそのまま内密に処分されてしまうかもしれないと思ったからだ。その時……
――村が無くなっちまうくれぇの騒ぎになんぞ。
生田の心に父の声が蘇った。生田は決心した。
「……粕川さんのとこのっ清彦君です」
村長は一瞬やっぱり、という顔になったがすぐに吹き消した。
「あの気色悪りい餓鬼か。どこで見た」
村道一号です」
「じゃあトンネルを封鎖しろ。車でも何でも使え。急げ! この村から逃がすな! ……俺は蔵から刀取ってくらあ」
村長の掛け声でその場に居た者(の内、動くことができた者)は一斉に各々の車へと乗り込み、発進した。


同日 三時 五十分 奥居村道一号

 清彦は背後から迫ってるエンジン音に、とっさに身を隠した。
「あいつらが気付いたみたいだね」
白は楽しそうにそう言った。まるでこれも一つの遊びのよう。しかし、清彦にはそれが嬉しかった。プレッシャーに押しつぶされそうになっていたからである。
「どうする? トンネルは閉鎖されるだろうし」
白のもっともな提案。清彦は自分の読みの甘さを悔やんだ。トンネルを封鎖されれば、この村から出る方法は村の中心部を突破し、端を渡るしかない。しかし……。迷っていても仕方が無い。清彦は新たな可能性に賭けることにした。
「橋を渡ろう」
清彦の言葉に、白はおどけるように答えた。
「中央突破だねぃ? 『ちゃれんぢゃー』だね、君は」
白はカタカナが大の不得意だった。どうもきちんとした調子で喋ることができず、こんな風に大時代的な、まるで大正や昭和のような言い方になってしまうのであった。清彦は、白のこういった細やかな気遣いをしてくれるところが嬉しかった。
「じゃ、いこうか」
二人は手をつないで、道を反対方向へと進み始めた。


同日 四時 四十八分 奥居村道一号

 清彦は白の手を引いて歩いていた。走り疲れてしまっていた。アスファルトで舗装されているとはいえ、田舎の道である。所々ひび割れていたり、木の根が出てきていたりしていてきけんである。足元を照らしたいのだが、気付かれてしまうため、懐中電灯を使えない。しかし、もうこの時間になればそろそろ夜が明ける。事実、空はもう白み始めていた。鳥の声も聞こえ始めている。朝。こうなってしまうと隠れるのは困難になる。清彦は、橋が日中の最後の機会(チャンス)になるであろうと覚悟していた。
 隣の白を見る。清彦が辺りを見回している間、こちらは清彦のことだけを見ていたようで、目線が合うとにっこりと微笑んできた。長めの髪が上気した頬にかかり……。思わず顔を逸らしてしまう清彦だった。
村の中心部まで後もう少し。


同日 五時 四十五分 谷戸(村の中心部)
村の中心部である谷戸という集落は、名前の通り川沿いの一番低いところにある。清彦はこの周りを山に囲まれた「底」が嫌いであった。閉じ込められている気がするのだ。