「逃走中」論。

 暫らく前にテレビでやっていた「逃走中」。
 昔(深夜時代)は好きでよく見ていたのだが、この前見たときは何故か耐えられなかった。どうしてだろう。少し考えてみたので書き留めておく。こんなの誰も見てないし。
 まず、見飽きてしまったから…と考えてみた。さすがにもう既に16回もやっていると、さすがに見飽きてくるのかもしれない。基本ルール自体は鬼ごっこなので、いくら途中でミッションを入れ、味を変えてみたとしても、同じに感じてしまうかもしれない。しかし、レギュラーメンバーが居るわけでもなし、やる場所も毎度違う。ちょっとこの理由には納得しかねる。しかも、クロノス時代は毎週やっていたのだ。それでも楽しかった。
 次に、もしかしたら、「ミッション」がマズイのかもしれない。この前の逃走中には、一寸法師をもじったミッションがあった。正直、痛い。ものすごく痛い。ああいった、子供だまし的なノリは正直虫唾が走る。昔はもっとシンプルで、鬼ごっこそのものに直結していた。禁止エリアがいい例だ。また、自首できなくなる代わりに…といったような、陳腐なヒーロー作りも見るに耐えない。個人プレーでいいじゃないか。それがいいのではないか。逃走者同士の連帯感を無理に引き出そうとするやり方は、悪辣でまったく意味が無い。
 また、「誰がミッションをやる、やらない」の件は茶番としか思えないし、質も悪い。リアリティーを大きく書いてしまっている。ああいう、ゲーム系の企画、とくに現実の町を舞台とする(最近はそれすらも面倒になったようだが…。)逃走中において、リアリティーのある非現実は重要だ。現実感があるからこそ、非現実が映える。一見矛盾しているようだが、実は大切な基本だ。たとえばハードボイルドな推理小説に、打ち出の小槌が出てきたらどうだろう。…興ざめもはなはだしい。
 最後に、出てくる芸人に対して、は言うことなんてないだろう。一番茶番っぽくしているのは彼らかもしれない。基本的に、芸能人には一般人ほどのお金に対する執着はない。自首システムや、この秒的(病的)にどんどん増えてゆく賞金に対する高揚感は、一般の金銭感覚がないと、表現しづらいだろう。芸人や芸能人を入れることで、もしかしたら視聴率に保険を掛けられるのかもしれない。また、ずっと隠れたままでいるとか、けが人が出るいうような、番組サイドにとって忌むべきリスクも避けられるのかもしれない。しかし、先ほども述べたように、必要なのは「リアリティー」である。凡人に勝るリアリティーはない。

 元々この逃走中という番組自体、欲の突っ張った逃走者を、視聴者があざ笑い、非難するという非常にいやみなシステムになっている。これを打開するためにも、(また、あざ笑っているのだと視聴者自信が気付くためにも)シリアスに、シンプルに、ストイックにするべきではないか。

 あと、ジョジョの第一部読みました。面白かったです。ブックオフで一人にやける私は、さぞ不気味だったことでしょう。

http://zoome.jp/mamonmamon/diary/3:movie=qt